満月に照らされて薄く光る夜道を、一つの馬車がゆっくりと進んでいた。人一人が進める程度に踏みならされた頼りない道筋。カラカラと穏やかな音を立てながら進むその姿は『呑気』といった言葉が丁度当てはまるようだ。御者台の上に は、眠そうに手綱を握る女性の姿があった。
 髪は透き通るような藍色で、綺麗なロングヘアーが女性らしさをアピールしている。対して服装は極めて活動的なもので、上は薄緑色の半袖シャツに八分丈の紺色ベ スト。膝の上あたりの短めのスカートに、腰巻き。左腰には細身の剣が二本添えられており、腰回りには携帯用の袋が二、三個きっちりとぶら下がっていた。
 そんな、少々変わった出で立ちをした女性はあふ、と眠気を誘うような欠伸を一つすると、手綱の先にいる黒い愛馬に話しかける。

「……こうずっと同じ道ばっかりだと暇だね、ルクティナ」

 話しかけられた当の愛馬、ルクティナは重そうに顔を上げてグル、と小さく喉を鳴らしただけであった。黒いたてがみが小さく風に揺れる。女性はそれを見てふぅ、と短く溜息をつくと手綱を片手で 握り直す。そして、もう片方の手で袋から古ぼけた地図とコンパスを取り出した。

「この道でいいんだよねぇ……? まさか、間違ったとか……」

 そう言って手綱から手を離し、両手に地図とコンパスを持ちながら見比べる。そうしてしばらくの間、悪戦苦闘する。
 ルクティナが前足を上げながら嘶いたのは、丁度その時だった。ルクティナはそれと同時に、我を失ったかのように全速力で走り出す。手綱から両手を離していた女性は、いきなりの振動に荷台の奥まで跳ね飛ばされてもんどり打つ。ルクティナ はそんな彼女にもお構いなしに、身体を上下に揺らしながら強靭な脚力で馬車を突き動かす。

「……っつ〜〜! こら、ルクティナ!! いきなりどうしたのさ!?」

 女性は強く打った頭を右手で押さえながら、ゆっくりと身体を起こす。その顔には痛みに耐える表情が見られたものの、焦りや不安といった感情は見られない。
 ルクティナは優秀な馬だが、同時にとても繊細な馬でもある。まわりを飛び回る蜂に驚いて混乱したりなどは、たまにあることだった。そして、彼女が一声かけて宥めてやればすぐに大人しくなるものでもあったのだ。だが、今回の状況はいつものそれとは明らかに違う類のものだった。彼女が宥めすかして大人しくなるどころか、暴走はますます激しくなるばかり。荒い呼吸を繰り返しながらも、走ることをやめようとはしない。
 女性はようやく異変を感じ取ると、激しく揺れる荷台から慣れた身のこなしで素早く御者台へと乗り移る。見ると、馬車と馬とを繋いでいる革は、あまりの力に千切れる寸前であった。本来それは、馬が暴れたとしてそう簡単に切れるものではない。当たり前のことだ。使い込んできたが故の寿命か、ルクティナの暴走が常軌を逸しているのか。あるいは、その両方か。とにかく、もう長く保たないだろうことは確かだ。察した女性は、そのままルクティナへと身を翻して荒々しく飛び乗る 。それを待っていたかのように、限界を越えていた革はブチッ、という不吉な音とともにあっけなく千切れ去った。
 馬車という重い鎖から解き放たれた自慢の愛馬は、上に乗っている主人のことなどには目もくれないといった様子でロケットのごとく加速する。女性は体勢を立て直す暇もなく加速したルクティナに、両手で首をしっかりと掴んで振り落とされるまいとする。常人であればすぐに振り落とされていたであろう。いつまでも走り続ける漆黒の馬の首にしがみつくその姿は、彼女がただの一般人ではないことを物語っていた。
 そうして数十秒の時を経て、速度を落とさないルクティナにとうとう業を煮やしたのか、女性は両足で不安定な首元に巻き付き、あいた右手で腰から剣を一本とる。

「……こぉの、……バカ馬!!」

 そのまま鞘のついた状態で思いっきりルクティナの脇腹を強打する。ルクティナはその衝撃にようやく足を止め、バランスを崩してその場に倒れこむ。そしてその一瞬のうちに女性はルクティナから飛び降り、驚くべきことに無傷で隣に着地した。剣を専用のベルトに差し戻して優雅に服の乱れを直す。それを素早く終えると、横たわっているルクティナの脇腹を優しく撫でて立ち上がらせる。ふらふらと立ち上がったルクティナには、すでに先程までの異様さは感じられなかった。

「ごめんごめん、強くやりすぎちゃった……」

 抗議するかのように顔を乱暴に擦りつけてくる愛馬に、女性は困ったような苦笑いを浮かべた。すっかり落ち着きを取り戻したルクティナの頭を撫でながら、遥か後方に視線を向ける。距離が離れすぎて、置いていった馬車は最早すっかりと見えなくなってしまっていた。仕方がなしに取りあえず辺りを見回すと、……そこは深い闇だった。先程までも森の中で影となっていた部分もあったが、道が見える程度には光があった。だが今、周囲にはおびただしく無尽蔵に成長した木々たちによって空は見えず、僅かな光の筋が見え隠れするのみであった。まるで魔物でも住んでいるかのような、暗鬱な雰囲気を肌で感じさせる。樹海、とただ呼ぶにはあまりにも雰囲気が異様だ。
 ルクティナはこの気に恐れ、我を失っていたのであろう。そう女性は思った。行く先に待ち構える凄まじい気配を、動物ならではの鋭敏な感覚で感じとってしまい、極度の興奮状態に陥ってしまったのだ。今もまた呼吸が荒くなってきている。『主人がいる』という安心感が無ければ、またすぐにでも先程の状態になってしまうことは明白だった。

「これが村長さんの言っていた、『常闇の樹海』って奴、か……」

 女性は落ち着き払った声でそう言うと、愛用の両剣を静かに抜き放つ。

「さぁて、鬼が出るか蛇が出るか……」

 そう言うと、さらに闇の濃度が強い方向へと歩みを進める。同時に、大切な愛馬を穏やかな声で鎮めることも忘れない。周囲の雰囲気とは裏腹に、彼女はどこか軽い様子で、まるで今から長年の友の家にでも訪ねていくかのような雰囲気だった。

「……ここで待ってて」

 ルクティナの頭をゆっくりと撫でて、諭すように優しく女性は言う。一度、何を馬鹿なと笑われたこともあるが、ルクティナとは意思の疎通が完璧に取れていると女性は信じている。いつだって愛馬は自分の親友だ。そんな彼女の想いを裏付けるかのように、ルクティナはブル、と一鳴きすると足を止めた。

「いい子だね」

 優しく微笑むと、ルクティナを置いて女性は先へと進む。ここに置いていって、逆にルクティナが化物に目を付けられて襲われるかもしれない。だが彼女は、それはないだろうと確信していた。根拠はない。ただ、ここ一番で何よりも信じるべき本能が告げていた。
 ……この先に『いる』と。それならばルクティナを連れて行って巻き込むのは愚策だ。気にかかるのは先ほどの暴走だが、どちらかを天秤にかけるとしたら、やはり置いていったほうが正解だろう。女性はそう判断した。

「…………」

 小さく、息を吐く。前へ進もうとして左足が落ちている小枝を踏みつける。パキ、と乾いた音が鳴りその小枝が折れた。

 その瞬間。ゾワリとした悪寒が一気に体中を駆け巡る。考える暇もなく、反射的に女性は後ろへと飛び退いた。

「……!!」

 ……そして、自分の感覚が正しかったことを悟る。先ほどまで立っていた場所の横の木が、ちょうど自分の顔の高さあたりから折れていたからだ。遅れて、折れた木が倒れて大きな音が辺りに響く。木をなぎ倒した『それ』は驚くべき速度で闇へと戻っていく。  辺りを、一瞬の静寂が包む。樹海の深きゆえか、異様な雰囲気ゆえか、虫の音ひとつすら聞こえない。闇に包まれて、『それ』が戻っていった木々の間は窺えない。だが、そこにいることは確かだった。

「……人間の、雌、か」

 現れたのは、闇とは対照的な純白だった。
 人の体躯の三倍はありそうな大蛇。空から一筋だけ漏れているほんのわずかな月光がその混じりけのない白と呼応して、輝いてすら見える。頭から尾の先までが透き通るような白。神聖ささえ感じる、美しくも恐ろしい化物がそこにはいた。

「わざわざ私の縄張りまで入り込んで……いったい何の用だ?」

 どこか艶かしさを感じる容貌とは裏腹に、大蛇はしわがれた、それでいてよく通る声を響かせて女性に話しかける。当たり前のように人語を操っているが、女性は驚きを感じなかった。その見た目、雰囲気が『そうであってもおかしくはない』という神秘的な説得力を内包していたからだ。

「(本当に蛇が出てくるなんてね……)」

 そんなどうでもいいことを一瞬思うが、すぐに頭の片隅へと追いやり、口を開く。

「あなた、元々ここいら一帯にはいなかったでしょ?」

「……私がここを縄張りとしたのは、少し前のことだったと確かに私も記憶しているが。それがどうかしたのかね?」

「そのせいで色々おかしくなっちゃってね。縄張りを失った獣たちが近隣の村まで出てきて被害が出ているのよ」

「…………」

 そこまで聞いて、大蛇は得心がいったとばかりに鋭い目を薄く細める。その仕草に得体のしれない不気味さを感じるが、女性はそれを今は胸にしまいこむ。

「なるほど。それで私を殺すためにお前が来たというわけか」

「……そういうこと。理解が早くて助かるわ」

 言って、女性は右手に持った剣を大蛇へと向ける。攻撃でも、威嚇でもない。明確な意思表示だ。……一瞬、話が通じるのならばここを去るように説得するという手段も女性の頭の中には浮かんでいた。だがそれを言ったところで、この大蛇ならば口約束をしただけで自分が帰ったら何食わぬ顔でそのまま縄張りに居座るだろう。そして、それを知ってもう一度来たとして、『会わなければ』いい。大蛇にその気がなければ大掛かりな軍でもない限り再び見えることは難しいだろう。
 そう思ったからこそ、口にはしなかった。大蛇は恐怖することも激怒することもなく、淡々としている。

「弱肉強食、という言葉は人間の言葉だったはずだな。私がここで一番強いからここを縄張りにするのは、自然の摂理なのではないか?」

「そうかもね。なら、それで被害を受けた人間があなたを殺しに来るのもまた自然の摂理だと思わない?」

「グァカカカカッ!! なるほどなるほど! これは一本取られたな。……確かに、そのとおり」

 挑発的な笑みを浮かべた女性に、大蛇は怪しく響く重低音で愉快そうに笑った。心底、愉快そうだった。そして、それを合図としたかのように周囲の空気が一変した。
 大蛇の纏う雰囲気が重く、圧し掛かる。眼光だけで人を射殺してしまいそうなほどの殺気が女性を包む。彼女はチラリ、と未だ見える位置にいるルクティナを一瞥した。

「気にしなくていい。今は気分が良いのでな。……その馬には手は出さないでおくよ」

 口を大きく開けて、大蛇は笑う。強者の驕りか、はたまた戦士としての矜持か。

「……それは、ありがたい、わねッ!!」

 女性は言葉と同時に全身に一気に力を込めて、地を蹴る。およそ人とは思えない速度で剣の間合いまで踏み込み、左の剣で大蛇へと斬り掛かった。

 ガキンッ!!

「……ッ!!」

 生物を斬りつけたとは思えない音に、女性は大きく目を見開いた。剣は確かに大蛇の胴に当たっている。……そう、『当たっている』。一刀両断とまではいかずとも、鱗を幾分か切り取り、手傷を負わせるはずだった。
 ……剣は接敵した部分でピタリ、と止まっていた。

「そう易々と決着が着いたら面白くなかろう?」

 頭上から、楽しそうな声が降り注いだ。同時に風を切る音がした。上を見ずに女性は即座に左へ身体を躍らせる。一拍の後、その場所を上から鞭のように尻尾が抉っていった。その衝撃は地面ごとさらい、その場に小さな穴を作る。
 恐らくはあれで木もなぎ倒したのだろう……女性はそう思いながらも体勢を立て直そうとする。だが、女性が立ち上がるよりも速く、地面を抉った反動をそのまま推進力とした尻尾が襲い掛かってくる。想像していた数倍は速く翻してきた尻尾に女性はとっさに両の剣を交差させて衝撃を緩和させようと試みる。

「……うぐッ!!」

 直接喰らうよりはマシだったであろう。計り知れない衝撃が女性を襲い、そのまま尻尾とは逆方向に吹き飛ばされる。

「……がッ……!!」

 力強く立つ大木に背中から激突して、小さな呻き声が女性から漏れた。そのままくの字に折れ曲がり、うずくまる。口をパクパクさせながら顔を歪めながら息を吸い込もうとしている。そんな彼女に追撃を加えれば、勝敗は容易に着いたかもしれない。だが、大蛇は女性の姿を見て笑みを深くした。
 ……狩る者の愉悦。その感情が大蛇を支配していた。大蛇は彼女を同格として見てはいない。一方的に狩る獲物だと思っていたのだ。……だからこそ、激痛を押さえ込もうとしている彼女を見て、『笑う』。笑うだけだ。
 数秒の後、女性が立ち上がると大蛇はそれを見届けて言った。

「痛みは引いたかな?」

 大蛇の表情が人間には読み取れずとも、彼が喜色満面なのはわかっただろう。弾む声で大蛇は女性に言葉をかける。女性はそれに答えず、ため息を吐くと剣を構えなおす。

「ずいぶん紳士なのね。休憩時間、ありがたくいただいたわ」

「最初に言っただろう? 易々と決着が着いたら面白くない、と」

「……私の悪い癖、教訓として覚えておく。あなた『も』慢心していて命拾いした」

「……なに?」

 途中まで愉快そうに喉を鳴らしていた大蛇が、聞き捨てならない言葉を耳にして低い唸りをあげる。女性が発した言葉を頭の中で反芻して、女性を強く睨む。女性は真正面から強い眼差しでこちらを見返してくる。

「訂正するなら今だぞ? 人間」

「身体に負荷がかかるからって、出し惜しんで死んでたら世話ないわよね」

 女性はなおも大蛇の言葉に答えず、剣に力を込める。その出で立ちは堂々としたもので、大蛇が望んでいたものではない。
 恐怖し、絶望し、哀願する。『命だけは』と許しを請うその姿を見たかったのだ! 大蛇は苛立つ。こんな姿を見なかったのではない。私が『強者』なのだ、と。大蛇の愉悦のひとときは、ひとときのままで終わりを告げる。大蛇は怒りのままに叫んだ。

「……もうよい。死ねッ!!」

 怒りのままに尻尾をしならせて女性へと振るう。剣でガードしようと、意味はない。先程のように痛みでうずくまったら、今度は慈悲など与えずにそのまま殺してやる。大蛇はそう心の中で毒づく。
 しかし、結末は大蛇の思っていたものとはまるで違うものだった。

「……ギッ!? グァアアァアッ!!」

 痛みが、大蛇を襲った。想定していなかった突然の激痛に大蛇は叫び、混乱する。痛い? なぜ? なぜ痛い? そんな子供のような感想が頭の中を駆け巡り、胴体を激しく揺さぶる。必死の思いで痛みの先に目を向けると、自らの尻尾の先が失くなっていたのが見えた。

「キサマァッ!? 魔法剣士かッ!?」

 斬られた。それが否が応にもわかってしまったのだ。女性の剣が自分を一刀両断にしていた。いともたやすく、まるで紙でも切るかのように。自然と、叫んでいた。
 当の女性は大蛇の叫びを意にも介せず追撃を振るう。大蛇は初めて感じる恐れとともに、少し短くなった尻尾を必死に動かしてその切っ先をかわす。追ってくる女性と一定の間合いを保ちながら、ぐるぐると考えを巡らせる。一度だけ、魔法剣士という存在に会ったことがある。魔法と呼ばれる不可思議な力で自らの獲物を強化して、自分に傷を与えた存在がいた。彼女もまた、魔法剣士なのかもしれない。
 だが、と大蛇はさらにその先に思考を飛ばす。あの剣士は強かったが、それでも私には傷を負わせただけだ。決して真っ二つに斬られる、というようなことはなかった。危険な存在だとお互いに認識した我々は死合うことをやめて去ったはずだ。……では彼女は、いったいなんなのだ。底の見えない恐怖に包まれるのを大蛇は感じた。女性は、あのときの魔法剣士よりさらに力量が上の魔法剣士なのか。だとしたら、自分はどうなるのか。

「魔法剣士ではないわね! 説明する意味も義理もないけれどッ!」

「ギァアッ!!」

 叫びとともに女性が放った剣戟が、避け切れなかった尻尾を掠める。致命傷は免れたものの、もはや彼女に鱗の守りが通用しないことは確かだった。
 ならば、と大蛇は速度をあげて女性を振り切ろうとする。容易くこの身体を斬り飛ばせるのならば、攻撃すら通用しないのだ。自らの身体を武器としたあの攻撃は、鎧とも言える強固な鱗があってこそ。それが何の意味もなさないというのならば、ただ己の肉体を差し出していることと同義だ。
 逃げることが最善であることは間違いなかった。

「あれだけ余裕そうだったのに、こちらが上だとわかると逃げの一手。……無様ね」

 その言葉は、大蛇の心に届いた。憐憫を含んだ声色に、恐怖にも勝る怒気が溢れてくる。……挑発であることはわかっていた。生物として、逃げることがもっとも正しいということもわかっていた。

 だが、自分は『強者』だったのだ。

 生まれたときから、他の者とは違っていた。強固な鱗、巨大な身体、溢れんばかりの知能。いつだって君臨してきたのだ。自分は喰らうもので、ほかは食われるもの。あの魔法剣士でさえも、自分と戦うことは結局避けたのだ。
 矜持があった。誇りがあった。人間に、……人間『ごとき』に見下されることだけは我慢ならなかった。

「なめるなァッ! 人間ごときがァッッ!!!」

 恐怖を上回った誇りが大蛇を動かした。逃げていた身体を一転翻し、頭と尻尾で同時に襲い掛かる。刺し違えてでもこの人間を生かしておくわけにはいかない。

「ガ、ァッ……!!」

 自らのすべてを乗せたその双撃は、女性に届くことはなかった。女性は器用に両の剣を振るい、頭と尻尾の両方を切り抜ける。今まで自分が誇っていた肉体が、誇りと共に散っていくのを大蛇は感じた。
 彼女のほうが『強者』だった。……ただ、それだけだった。
 斬り飛ばされた自分の首が、尻尾が地面に落ちていくのを微弱に残った感覚で悟り、そのまま大蛇は……その生命を終えた。






welcome





「……ふぅ」

 二、三、剣を振り払い女性は剣についた血を飛ばす。そうして、鞘に戻すと振り返り、散らばった大蛇だった死体を見やる。

「…………」

 目の前まで歩み寄り、彼女は目を瞑り、静かに両手を顔の前で合わせる。そのまま軽くお辞儀をして、それを生を終えた命への黙祷とした。
 それから大切な愛馬のいる方向へ視線を向けて、歩きだす。数分歩くと、そこには変わらずにそこに立っているルクティナの姿があった。女性は思わず安堵の息を漏らし、同時にルクティナへのどうしようもないほどの愛情が湧き起こるのを感じた。逸る気持ちを抑え小走りで愛馬へと駆け寄り、その首元に熱い抱擁をかわす。

「ほんとうに良い子だねぇ、お前は。……よしよし、怖かったでしょ?」

 鋭敏な感覚を持つ愛馬のことだ。視認できる位置に大蛇が現れたときに受けた重圧は相当なものだっただろう。だが彼は自らの主人の言葉を信じて、その場所でしっかりと待っていたのだ。……逃げ出すこともなく、錯乱することもなく。それがどれほど嬉しいことか、どれほど愛おしいことか。女性はその黒い頬に口付けを降らせる。ルクティナもまたヒン、と小さく嘶き甘えるように顔を擦り付けていた。
 ひとしきり愛情を確認し合った後、大蛇が眠っている方向に顔を向ける。

「……弱肉強食って言葉、確かに、世界はそうかもしれない。でも私は、嫌いだね」

 その言葉は大蛇に向けて言ったものか、それとも自分自身に向けて言ったものかはわからない。だが、女性は力強い口調で続ける。

「強い者が弱い者を助けるほうが素敵じゃない? ……少なくとも、私はそうありたい」

 自嘲するように薄く笑うと、女性は視線を戻し、ルクティナの背へと飛び乗る。ルクティナはそれを躊躇うことなく受け入れて、主人が乗ったことを確認すると、ゆっくりと歩き始めた。
 闇夜を、漆黒の馬と藍色の剣士が進んでいく。蹄の音と、揺れて当たる金具の音だけが響いている。

「……馬車、見つかるかなぁ? ていうか、帰れる? これ」

 どこまでも軽い感じでつぶやく声は、闇に溶けていった。






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